自分の思う普通を「普通」と言えない世の中
ボクの「普通」がキミの「普通」じゃないことくらい知っているさ
ボクとキミは違う同じはずがない
自分が思う普通を「普通」と言っただけで
なぜそれを押しつけていると思うのだろう?
ボクの「普通」を間違っていると言うのはキミの自由
キミの「普通」を受け入れるかはボクが決める
声の大きい人、声の小さい人
論理的な人、感情的な人
わかり合おうとするためにすべきことは
お互いにわかり合おうという気持ちで向き合うこと
投稿者「JIMY-M」のアーカイブ
イヤホンを忘れただけで
木々の葉を叩く雨音と
傘を叩く雨音
音程やリズムの違いが
重なり合って
グルーブを生んでいる
風のものと思っていた音が
耳が風を受け流す音だと気づき
遠くに聞こえるサイレンの音が
記憶の中のサイレンを
脳が再生しているように思えて
本当に聴こえているのかがわからない
駅近く高架を走る電車の走行音が
見上げるだけで現実だという確信に変わり
寝ぼけた頭が少しだけクリアになる
そんな雨降りの朝
ながいことるすにしてしまった
ブログを始めたころは、自作曲の元となるような詩作を中心に毎日のように書いていた。その頃は同僚とか仕事関係の知人、バンド仲間などが読んでくれていて、感想などもときどき聞けたし、コメントを入れてくれる人もいた。最近は全く更新をしていないので見てくれる人も少ないだろうし、自分同様に存在すら忘れていることと思う。
年齢的にも老年に入ろうとしているだけでなく、親も高齢で旅立つ日も近いから、自然と自分自身の末期についても考えるようになった。妻も子もない身だし、弟妹も結婚していないので、順番を守れば大丈夫だが、場合によっては身寄りの無い孤独死ということも考えて身の振り方を準備していかなければならない。
子供なかった叔母は孤独死を回避するために自分の父を養子にした。親戚付き合いもきちんとしていたし、頻繁に行き来もあったので叔母には弔う人がいた。我家は母が先に亡くなったので親戚付き合いの担当者を失い、都内の親戚とは全く断絶している。
自分自身の生活態度として親戚との交流は煩わしいからと避けていたから、今更自分の孤独を理由に擦り寄る気持ちはないのだが、もしもの時に頼る先が無いというのは困ったことではある。自分が最後になって弟妹を送り出してから去るのであればまだよいが、妹が最後になるのは避けたい。どうあれ、両親ともに散骨を希望し、墓に収まることを放棄した我家なので、縁者がなければ無縁仏として葬られることに異存は無い。
フレンチトーストを作ってみる
母が時々作ってくれたフレンチトーストを思い出しながら作ってみる。
パンの耳の部分を切ったのは、パンの耳を揚げるやつを作ったからかなあ。
我が家ではお菓子は毎週日曜日の夜にしか買わないことになっていたので甘いものは常備していなかったので、蜂蜜とか砂糖をかけて食べるフレンチトーストは楽しみだった記憶がある。
牛乳は常備だし、卵も常備だったから自分でも作れたわけだけど、いつも頼んでた。
冷や飯を食らう
冷や飯を食べさせられることが屈辱となる国があるらしい。
昭和の頃、我が家には電子ジャーなどなく、ガス釜で昼に炊いた白米を夏場は冷蔵庫に、冬場はそのままにしていた。冷や飯である。夕食で温かいご飯を食べるためには、どんぶりによそって、蒸し器を使って温めて食べるのが定番だった。
家業が理髪店なのでお客の切れ目にさっと食事する必要があり、家訓として働く者優先が子どもにも徹底されていたから、順番を譲って後回しになり温かい状態で食事ができないこともあった。これは、食事のスペースが5人家族と職人さん1人に対して3人しか座れない狭さだったせいもある。休日以外は家族でテーブルを囲むということは珍しかった。
そんなわけで、子ども時代の自分にとって冷や飯はごく普通のことで、温かいご飯に対するこだわりは今でも全く無い。少年時代の習慣のせいか「温かいうちに召し上がれ」とか「アツアツをどうぞ」とかはむしろ苦手だ。やけどしそうになる。寿司が好きなのは冷や飯を食べ続けたせいなのかもしれない。母はご飯も味噌汁も温めて食べるように言っていたから決して伝統では無いが、自分には温めた味噌汁を冷や飯にかけて食べたときの温度が丁度よかったような気がする。
孤食を好むのも、家族で会話をしながら食べるより、1人でテレビを見ながら食べていることが多かったからなのかもしれない。食事を囲んだ家族の団らんを理想像として語る人は多いけれど、それぞれの家族の生活の中で育まれた行動様式は恥じるようなものでもないし、誇るようなことでもない。日常の中でたまたま出来上がったありのままというだけのことだ。好きにすべきだと思う。
空からの啓示
うん
空からその啓示は降ってきて
僕は手を頭上に掲げそれを手にした
今日はついている
そう考えることができる
うん
空からの啓示は不意に降りてきて
僕は歩みを止め
今日はついている
自分の運命と感じることができる
うん
空からの啓示を
降ってきた啓示を
ハンカチで拭って
家に帰ってシャワーを浴びた
ふん
通いなれた道
どちらに進もうと
そこには道がある
誰かが歩かなければ
道はできないから
何億何万何千人が
何億何万何千回も通った道
今自分がいる場所から
誰も通ったことのない道は無く
どう進んでも誰かの足跡を踏む
この道を果てまで行くしかない
その先に新しい足跡をつけて
道を作った誰かに報いるためには
母は花が好きだった
父と母は、父の実家である叔父夫婦が経営する理髪店から独立して、少し離れた町の店舗付きのアパートで理髪店を開業した。商店街の外れ、二両編成の電車が通る線路に面したアパートの一階にある店舗は、奥に台所とトイレと六畳の和室があるだけで、風呂は無く、もちろん庭などは無い、窓から陽が差し込むことがほとんど無いような部屋だった。
母は草花が好きだったので、店の前にプランターや植木鉢を置いて花を育てていたが、それだけでは飽き足らずに、店の前の道路に面した鉄道のフェンスの下にある本当に猫の額ほどの地面に、紫陽花、バラ、柑橘系の実がなる木やシキミなどを挿し木をして育てていた。
僕が小学生高学年になる頃には、店の前の通りだけでなく線路の向こう側にある土手にまで紫陽花や菊を植ていて、僕と弟は母に頼まれて、小遣い稼ぎで開墾をしたり水をやりをしたりしていた。店の前に線路のフェンスに1カ所だけ切れ目があり、通り抜けることができたので、ごく普通に線路を横断して向こう岸まで渡っていたけれど、それは元路面電車という大らかさがまだあったからだろう。今考えれば鉄道法違反である。
菊の花が咲くころになると、母は学校に持って行けと新聞紙に菊の花をくるんでくれた。花束を持って登校することが恥ずかしくて、いつも嫌だと言うのだが、母もしつこいので結局持って行くことになる。最初は教卓に花を無造作に置いて済まそうとしたのだけれど、担任の先生から「誰ですかお花を持ってきてくれたのは」と話題にされるので、朝のうちに花瓶や牛乳の空き瓶に活けておくようなった。
何度か持って行くうちに、それをスタンドプレーと感じていたであろうある友人から「それ除虫菊?」と言われて、そうかもねと一緒に笑いながら、内心腹を立てたことがある。その後も母が連絡網を間違えて回したことを公然と非難したりしたので、名前を見るだけで未だに嫌な気持ちになる。中学校時代など遙かな昔なのに、不思議とこの手の嫌な気持ちは鮮明に覚えていて、今でも恨んでいる。当然、自分も恨まれるようなことがあったのだろうけれど。
母は自身が小学生時代から、花を摘んできて生けたりすることを当たり前のようにしていたのだろう。母が尊敬し、晩年まで手紙のやりとりをしていた元担任の先生との関係が、なんとなく想像できる。母はとても純粋な人だったのだと今さらながら思う。植物の世話をして花を咲かせ、その喜びを単純に他の人に分けてあげたい。そんな思いから自分に花を託していたのだろう。当時は花など全く関心が無かった無粋な中学生には考えも及ばないことだ。