母のことを思う」カテゴリーアーカイブ

フレンチトーストを作ってみる

母が時々作ってくれたフレンチトーストを思い出しながら作ってみる。
パンの耳の部分を切ったのは、パンの耳を揚げるやつを作ったからかなあ。
我が家ではお菓子は毎週日曜日の夜にしか買わないことになっていたので甘いものは常備していなかったので、蜂蜜とか砂糖をかけて食べるフレンチトーストは楽しみだった記憶がある。
牛乳は常備だし、卵も常備だったから自分でも作れたわけだけど、いつも頼んでた。

冷や飯を食らう

冷や飯を食べさせられることが屈辱となる国があるらしい。

昭和の頃、我が家には電子ジャーなどなく、ガス釜で昼に炊いた白米を夏場は冷蔵庫に、冬場はそのままにしていた。冷や飯である。夕食で温かいご飯を食べるためには、どんぶりによそって、蒸し器を使って温めて食べるのが定番だった。
家業が理髪店なのでお客の切れ目にさっと食事する必要があり、家訓として働く者優先が子どもにも徹底されていたから、順番を譲って後回しになり温かい状態で食事ができないこともあった。これは、食事のスペースが5人家族と職人さん1人に対して3人しか座れない狭さだったせいもある。休日以外は家族でテーブルを囲むということは珍しかった。
そんなわけで、子ども時代の自分にとって冷や飯はごく普通のことで、温かいご飯に対するこだわりは今でも全く無い。少年時代の習慣のせいか「温かいうちに召し上がれ」とか「アツアツをどうぞ」とかはむしろ苦手だ。やけどしそうになる。寿司が好きなのは冷や飯を食べ続けたせいなのかもしれない。母はご飯も味噌汁も温めて食べるように言っていたから決して伝統では無いが、自分には温めた味噌汁を冷や飯にかけて食べたときの温度が丁度よかったような気がする。
孤食を好むのも、家族で会話をしながら食べるより、1人でテレビを見ながら食べていることが多かったからなのかもしれない。食事を囲んだ家族の団らんを理想像として語る人は多いけれど、それぞれの家族の生活の中で育まれた行動様式は恥じるようなものでもないし、誇るようなことでもない。日常の中でたまたま出来上がったありのままというだけのことだ。好きにすべきだと思う。

母は花が好きだった

父と母は、父の実家である叔父夫婦が経営する理髪店から独立して、少し離れた町の店舗付きのアパートで理髪店を開業した。商店街の外れ、二両編成の電車が通る線路に面したアパートの一階にある店舗は、奥に台所とトイレと六畳の和室があるだけで、風呂は無く、もちろん庭などは無い、窓から陽が差し込むことがほとんど無いような部屋だった。

母は草花が好きだったので、店の前にプランターや植木鉢を置いて花を育てていたが、それだけでは飽き足らずに、店の前の道路に面した鉄道のフェンスの下にある本当に猫の額ほどの地面に、紫陽花、バラ、柑橘系の実がなる木やシキミなどを挿し木をして育てていた。

僕が小学生高学年になる頃には、店の前の通りだけでなく線路の向こう側にある土手にまで紫陽花や菊を植ていて、僕と弟は母に頼まれて、小遣い稼ぎで開墾をしたり水をやりをしたりしていた。店の前に線路のフェンスに1カ所だけ切れ目があり、通り抜けることができたので、ごく普通に線路を横断して向こう岸まで渡っていたけれど、それは元路面電車という大らかさがまだあったからだろう。今考えれば鉄道法違反である。

菊の花が咲くころになると、母は学校に持って行けと新聞紙に菊の花をくるんでくれた。花束を持って登校することが恥ずかしくて、いつも嫌だと言うのだが、母もしつこいので結局持って行くことになる。最初は教卓に花を無造作に置いて済まそうとしたのだけれど、担任の先生から「誰ですかお花を持ってきてくれたのは」と話題にされるので、朝のうちに花瓶や牛乳の空き瓶に活けておくようなった。

何度か持って行くうちに、それをスタンドプレーと感じていたであろうある友人から「それ除虫菊?」と言われて、そうかもねと一緒に笑いながら、内心腹を立てたことがある。その後も母が連絡網を間違えて回したことを公然と非難したりしたので、名前を見るだけで未だに嫌な気持ちになる。中学校時代など遙かな昔なのに、不思議とこの手の嫌な気持ちは鮮明に覚えていて、今でも恨んでいる。当然、自分も恨まれるようなことがあったのだろうけれど。

母は自身が小学生時代から、花を摘んできて生けたりすることを当たり前のようにしていたのだろう。母が尊敬し、晩年まで手紙のやりとりをしていた元担任の先生との関係が、なんとなく想像できる。母はとても純粋な人だったのだと今さらながら思う。植物の世話をして花を咲かせ、その喜びを単純に他の人に分けてあげたい。そんな思いから自分に花を託していたのだろう。当時は花など全く関心が無かった無粋な中学生には考えも及ばないことだ。

 

昨日は母の誕生でした

 子どもの頃、パン屋でパンの耳の切り落としを買ってくるように母に言われることがあった。近所のパン屋に食パンを一斤買いに行くことが度々あったが、ビニール袋一杯に詰まったパンの耳は数十円で店頭にあったりなかったりしたように思う。それを揚げて砂糖をふっておやつにする。お菓子は常備しない我が家だったので、甘いものが食べられるだけでけっこううれしかった。写真は何年か前に油をケチって自分で上げてみたというより、焼いてみたパンの耳。

ふたりのロッテ

母が、唯一観たがっていた映画。美空ひばりの「二人のロッテ」。基本的に外出が嫌いで、一緒に映画を見に行った記憶がないので、映画を見ることにそれほど興味がなかったであろう母が観たいと言っていた。

母の日にでも贈ろうかとネットで検索してみたりして、探していたのだが、今、思い立って検索してみたら、題名が「ひばりの子守歌」だということが分かった。アマゾンで早速購入。母には見せることができなかったが、せめてどんな映画なのか知りたくて購入した。

 

母の好きな食べ物

母は鍋焼うどんが好きだった気がする。出前を取ったときに一人だけ頼んだことがあるようなうっすらとした記憶がある。病気したときに食べさせてもらったという思い出話もしていていた気がする。

母が、食べ物について好き嫌いを言う場面をほとんど見たことがないし、旅先でも自分の好みを主張して店を選んだりということはなかった。外食の時に店を選ぶのはいつも父で、そのこと自体にも文句を言っている場面も見ていない。

母が好んで食べていたものを思い出そうとしても、切干大根の煮物や、ひじきの煮物をおかずに食事している姿がうかぶだけ。いつも丼に山盛りになるような大量の煮物を作って、子ども達が揚げ物や肉などを食べている横で、自分は煮物だけで食事を済ませていた。餃子を作っても「何個ずつ?」と聞くと子どもに母の分を譲っていた。理髪店の仕事が忙しくて食事を作る時間が無い時には、近所の肉屋で惣菜のコロッケを買ったり、豆腐屋で厚揚げを買ったりしておかずにしたが、そのときには母の分は数に入っていなかった気がする。自分は言われるままに買いに行っていただけだったが、子供心に多少の違和感を感じていた記憶がある。

他に思い出すのは、果物が好きだったこと。食卓に果物が無いということは無かった。裕福とは言えない経済状況の中で、母のやりくりでひもじい思いはしなかった子ども時代。食に関しての母の関心は「家族の健康」であったことは確かだ。

母の日

昨日は母の日だった。

誕生日や母の日に切り花を買って贈ったこともあったが、何回目かで切り花は枯れてしまうから好きではないと言われた。鉢植えのカーネーションを贈るようになったが、それとてやがては枯れるのだ。

母が亡くなってから色々と回想することが多くなったし、夢にも頻繁に登場するようになった気がする。母が好きな食べ物なんだったっけと考えたりする。そういえば鍋焼きうどんが好きだと聞いたことがあったような。先日、実家の近所にある福室庵の90周年を知り、鍋焼きうどんを出前で頼んだことがあったのを思い出した。何か特別の日だったのか、夕食の準備が間に合わなかったからなのか、そこは思い出せない。

今日は母の誕生日

去年の今頃、病床の母に最後の誕生日プレゼントを持って病院に行き一緒に写真を撮った。すでに会話がほとんどできなかったけれど、なんとなくカメラ目線になっていた。母との記念にしたくて病室に持って行ったそのプレゼントはカンボジアの画家が描いた極彩色の仏画のような絵で、一目見て母に似ている気がして購入したものだ。その後、葬儀で飾り、今はリビングに飾ってある。

今日は柿の日らいしい

母は果物が好きで、何かしらの果物が食卓に必ずあった。

自分も果物は好きなのだが、実家で暮らしていたときには自分から柿を食べようと思ったことがなかった。小さな頃に渋柿を食べてトラウマになっていたのか、あの酸味のない甘さが嫌だったのか、ヌルヌルした食感が苦手だったのか、理由はよくわからないが自分で皮をむいて食べようとしたことがなかった。

それでも時折、母が剥いてくれて「美味しいよ」と言っていって口に運んでくれた柿を食べた記憶がある。実が黒っぽい大きな種がある柿だ。

ここ十年くらいだろうか、スーパーの店頭に並ぶ柿を結構楽しみにしている。味覚が変わったのか、ふと食べてみたくなり、今ではこの季節の定番になっている。そして、なんとなく母のことを想う。買うのは種なしの柿だけれど。

母を偲ぶ場所は自分で決めました

母は戒名もいらないし、散骨をして墓に入れなくていいなどと言うくせに、叔父の墓参りで作法を重んじない自分に「ちゃんと手を合わせなさい」と注意したりする程度の常識は、わきまえた人でした。

自分は変わり者なのか、死後に「あの世」などはなく、魂は肉体と共に消滅すると考えています。だから母の遺骨に母だったものという以外の意味は感じません。粗末に扱うのはどうかとは思いますが、土に返すのが正しい行いなのだと思うので、散骨でいいと思っています。

仏教で言う輪廻転生は、転生した自分の魂が別の姿で生まれ変わるという意味ではなく、土に埋めれば微生物の糧となるり、燃やせば熱と煙と燃えカスになって、地球の一部に戻るという自然の営みを、的確に言い当てていると思います。生きている人間にはきっと魂があると思うけれど、自分の魂は肉体という存在に紐付けられていて、死をもって霧散し、たとえ生まれ変わったとしても、それはすでに自分ではないと思うのです。

そんな考えを持つ自分には、故人を偲ぶ場所が遺骨を納めた「墓」である必要性がありません。古来から人間が作り上げてきた風習を否定はしませんし、尊重はしますが、自分とは関係のないことに思えてしまいます。故人と日常的に関わりがあった人ならば生活のあらゆる場面で故人を偲ぶことになるのですから、「墓」という記号は必要ありませんし、決められた日に故人を思い出すことを義務づけられる必要もありません。自分が感じ取れる母の魂は、自分の心の中にしかないのだから、母を想わなくなる時が自然に訪れることこそが死であるようにすら思えるのです。そういう意味では「墓」は現世に魂が残ることを延長するためのシステムなのでしょう。

 以前から大橋ジャンクションの上にある目黒天空庭園が自分にとっての「母を偲ぶ場所」になると思っていました。面会時間を待ちながら、巨大なジャンクションの建造物の上に作られた公園から、国道246とその上を走る高速道路の向こう側に見える病院を眺めていました。公園の中には葡萄棚やプチトマトを育てている畑があり、季節の花も咲いています。草花が好きな母を車いすに乗せて連れて来たいと思っていました。亡くなった叔父を偲ぶのが上野の不忍池なのも、叔母と一緒に見舞いの行き帰りに何度か通ったからです。行くたびに必ず思い出します。母を偲ぶこの公園には上野ほどは行く機会がないのかもしれませんが、その場所があることが、母への想いをつなぎとめるような気がしています。