1月4日に母が亡くなり、存命のときよりも母のことを思い出すことが多くなった気がします。父も母の夢をよく見ると言っています。しかし、やがては母の思い出も記憶の中で薄らいでいき自分の肉体と共に消滅するのかと思うと、思い出せるうちに書き記しておきたいという思いに駆られるのですが、思い出はとりとめもなくやってきて、次の瞬間には消えてしまうものです。
母のことを思うとき、母は母の母親である祖母にどのような気持ちをもっていたのかを想像します。家族旅行に祖母が同行した帰りに、住まいに帰るために祖母と別れる母はどんな気持ちだったのか。西日暮里の駅で京浜東北線に乗り換える祖母は、僕たち家族の元を離れて一人でホームを歩いて行くのですが、その後ろ姿をおぼろげに思い出します。
祖母はいつも和服を着ていました。家業の理髪店が忙しくなる暮れには家事を手伝いに来てくれていたので、疎遠というほど遠くもなく、かといっていつも一緒にいるわけでもない存在でした。それでも子供だった自分には、祖母が母の母であるという認識は薄かったと思います。母は祖母のことを「かあさん」と呼んでいたと思うのですが、確かな記憶ではありません。
祖母が入院したときには、母と見舞いに行きましたが、自分と母の関係に置き換えて考えてみることはあまりせずにいました。しばらくして祖母は亡くなり、たぶんその時には自分の母の死について考えたと思うのですが、遠い記憶となって思い出せません。
母の葬儀の時にはあまり思いませんでしたが、今思えば棺で横たわる母の顔は祖母に似ていました。当たり前ですね。
JIMYさん! すこし気持ちが落ち着いて色々の思い出が懐かしく深く気持ちのなかで、色々と
蘇っているのでしょうね。
親子としての深い愛情は、一篇の人生の心の形見ともなり日常のなかで、至極当然として素通り
してきたようなことが思い出となり、時間が経つごとにご自身を守ってくれているのだ、という実感
が生まれ、お母様への感謝の気持ちへとなるでしょう。
魂は生きているとずっと信じてきている真情のわたしです。
今後におかれまして、JIMYさんがお元気にてご活躍されますことを願っております。
Maki より
いつもコメントありがとうございます。
幼い頃から人の死については色々と考えて来たような気がするのですが
現実の中で対面するとなんとも不思議な感覚です。
死者の魂は生者の中に残り、共に生き続けると思う自分です。
存在としての母と記憶の中の母との違いについて考えています。