母は花が好きだった

父と母は、父の実家である叔父夫婦が経営する理髪店から独立して、少し離れた町の店舗付きのアパートで理髪店を開業した。商店街の外れ、二両編成の電車が通る線路に面したアパートの一階にある店舗は、奥に台所とトイレと六畳の和室があるだけで、風呂は無く、もちろん庭などは無い、窓から陽が差し込むことがほとんど無いような部屋だった。

母は草花が好きだったので、店の前にプランターや植木鉢を置いて花を育てていたが、それだけでは飽き足らずに、店の前の道路に面した鉄道のフェンスの下にある本当に猫の額ほどの地面に、紫陽花、バラ、柑橘系の実がなる木やシキミなどを挿し木をして育てていた。

僕が小学生高学年になる頃には、店の前の通りだけでなく線路の向こう側にある土手にまで紫陽花や菊を植ていて、僕と弟は母に頼まれて、小遣い稼ぎで開墾をしたり水をやりをしたりしていた。店の前に線路のフェンスに1カ所だけ切れ目があり、通り抜けることができたので、ごく普通に線路を横断して向こう岸まで渡っていたけれど、それは元路面電車という大らかさがまだあったからだろう。今考えれば鉄道法違反である。

菊の花が咲くころになると、母は学校に持って行けと新聞紙に菊の花をくるんでくれた。花束を持って登校することが恥ずかしくて、いつも嫌だと言うのだが、母もしつこいので結局持って行くことになる。最初は教卓に花を無造作に置いて済まそうとしたのだけれど、担任の先生から「誰ですかお花を持ってきてくれたのは」と話題にされるので、朝のうちに花瓶や牛乳の空き瓶に活けておくようなった。

何度か持って行くうちに、それをスタンドプレーと感じていたであろうある友人から「それ除虫菊?」と言われて、そうかもねと一緒に笑いながら、内心腹を立てたことがある。その後も母が連絡網を間違えて回したことを公然と非難したりしたので、名前を見るだけで未だに嫌な気持ちになる。中学校時代など遙かな昔なのに、不思議とこの手の嫌な気持ちは鮮明に覚えていて、今でも恨んでいる。当然、自分も恨まれるようなことがあったのだろうけれど。

母は自身が小学生時代から、花を摘んできて生けたりすることを当たり前のようにしていたのだろう。母が尊敬し、晩年まで手紙のやりとりをしていた元担任の先生との関係が、なんとなく想像できる。母はとても純粋な人だったのだと今さらながら思う。植物の世話をして花を咲かせ、その喜びを単純に他の人に分けてあげたい。そんな思いから自分に花を託していたのだろう。当時は花など全く関心が無かった無粋な中学生には考えも及ばないことだ。

 

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