今日は母の誕生日

去年の今頃、病床の母に最後の誕生日プレゼントを持って病院に行き一緒に写真を撮った。すでに会話がほとんどできなかったけれど、なんとなくカメラ目線になっていた。母との記念にしたくて病室に持って行ったそのプレゼントはカンボジアの画家が描いた極彩色の仏画のような絵で、一目見て母に似ている気がして購入したものだ。その後、葬儀で飾り、今はリビングに飾ってある。

今日は柿の日らいしい

母は果物が好きで、何かしらの果物が食卓に必ずあった。

自分も果物は好きなのだが、実家で暮らしていたときには自分から柿を食べようと思ったことがなかった。小さな頃に渋柿を食べてトラウマになっていたのか、あの酸味のない甘さが嫌だったのか、ヌルヌルした食感が苦手だったのか、理由はよくわからないが自分で皮をむいて食べようとしたことがなかった。

それでも時折、母が剥いてくれて「美味しいよ」と言っていって口に運んでくれた柿を食べた記憶がある。実が黒っぽい大きな種がある柿だ。

ここ十年くらいだろうか、スーパーの店頭に並ぶ柿を結構楽しみにしている。味覚が変わったのか、ふと食べてみたくなり、今ではこの季節の定番になっている。そして、なんとなく母のことを想う。買うのは種なしの柿だけれど。

近所の梅の木に実がついて

この道を数え切れないほど通っている
梅の花や梅の香りも何度も楽しませてもらったいるけれど
梅の実がついている姿を見たのは初めてのように思う
毎年、この時期にここを通ることがなかったのか
まさか、今年初めて実をつけたなんてことはあるまい

母を偲ぶ場所は自分で決めました

母は戒名もいらないし、散骨をして墓に入れなくていいなどと言うくせに、叔父の墓参りで作法を重んじない自分に「ちゃんと手を合わせなさい」と注意したりする程度の常識は、わきまえた人でした。

自分は変わり者なのか、死後に「あの世」などはなく、魂は肉体と共に消滅すると考えています。だから母の遺骨に母だったものという以外の意味は感じません。粗末に扱うのはどうかとは思いますが、土に返すのが正しい行いなのだと思うので、散骨でいいと思っています。

仏教で言う輪廻転生は、転生した自分の魂が別の姿で生まれ変わるという意味ではなく、土に埋めれば微生物の糧となるり、燃やせば熱と煙と燃えカスになって、地球の一部に戻るという自然の営みを、的確に言い当てていると思います。生きている人間にはきっと魂があると思うけれど、自分の魂は肉体という存在に紐付けられていて、死をもって霧散し、たとえ生まれ変わったとしても、それはすでに自分ではないと思うのです。

そんな考えを持つ自分には、故人を偲ぶ場所が遺骨を納めた「墓」である必要性がありません。古来から人間が作り上げてきた風習を否定はしませんし、尊重はしますが、自分とは関係のないことに思えてしまいます。故人と日常的に関わりがあった人ならば生活のあらゆる場面で故人を偲ぶことになるのですから、「墓」という記号は必要ありませんし、決められた日に故人を思い出すことを義務づけられる必要もありません。自分が感じ取れる母の魂は、自分の心の中にしかないのだから、母を想わなくなる時が自然に訪れることこそが死であるようにすら思えるのです。そういう意味では「墓」は現世に魂が残ることを延長するためのシステムなのでしょう。

 以前から大橋ジャンクションの上にある目黒天空庭園が自分にとっての「母を偲ぶ場所」になると思っていました。面会時間を待ちながら、巨大なジャンクションの建造物の上に作られた公園から、国道246とその上を走る高速道路の向こう側に見える病院を眺めていました。公園の中には葡萄棚やプチトマトを育てている畑があり、季節の花も咲いています。草花が好きな母を車いすに乗せて連れて来たいと思っていました。亡くなった叔父を偲ぶのが上野の不忍池なのも、叔母と一緒に見舞いの行き帰りに何度か通ったからです。行くたびに必ず思い出します。母を偲ぶこの公園には上野ほどは行く機会がないのかもしれませんが、その場所があることが、母への想いをつなぎとめるような気がしています。

母の母のこと

1月4日に母が亡くなり、存命のときよりも母のことを思い出すことが多くなった気がします。父も母の夢をよく見ると言っています。しかし、やがては母の思い出も記憶の中で薄らいでいき自分の肉体と共に消滅するのかと思うと、思い出せるうちに書き記しておきたいという思いに駆られるのですが、思い出はとりとめもなくやってきて、次の瞬間には消えてしまうものです。

母のことを思うとき、母は母の母親である祖母にどのような気持ちをもっていたのかを想像します。家族旅行に祖母が同行した帰りに、住まいに帰るために祖母と別れる母はどんな気持ちだったのか。西日暮里の駅で京浜東北線に乗り換える祖母は、僕たち家族の元を離れて一人でホームを歩いて行くのですが、その後ろ姿をおぼろげに思い出します。

祖母はいつも和服を着ていました。家業の理髪店が忙しくなる暮れには家事を手伝いに来てくれていたので、疎遠というほど遠くもなく、かといっていつも一緒にいるわけでもない存在でした。それでも子供だった自分には、祖母が母の母であるという認識は薄かったと思います。母は祖母のことを「かあさん」と呼んでいたと思うのですが、確かな記憶ではありません。

祖母が入院したときには、母と見舞いに行きましたが、自分と母の関係に置き換えて考えてみることはあまりせずにいました。しばらくして祖母は亡くなり、たぶんその時には自分の母の死について考えたと思うのですが、遠い記憶となって思い出せません。

母の葬儀の時にはあまり思いませんでしたが、今思えば棺で横たわる母の顔は祖母に似ていました。当たり前ですね。

そのときをまつ

dsc02062誰もがいつかそのときを迎えると
知ったのはいつのころだっただろう
誰でもいつかは去るときが来ると
聞いたのはどこだっただろう
誰もがいつもそのときをまつ
そのときが近いと誰かが告げたとき
そのときが今日や明日のように
連なる日々の終着として見えてくる
あいまいであることが
これほどまでに
幸せであったとは

無意味な化石

人類の遺跡
遠い未来のある日
誰かがこの痕跡を見つけて
これはなんだろうと想像力をはたらかせる
当時の日本ではこのような不思議な生物がいたのですね

遠い未来の誰かより
今を生きる僕らの方が
きっとこの痕跡が何かを正確に想像できる

そんな風にあらゆるものは
時間を経るほどに
あいまいになるものなのだ

遠すぎる過去ほど

私の行く手を阻むもの

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何を意図して
この缶を置いたのか

行き過ぎる男を
笑うためなのか

過去の愚行が
早朝の道で蘇る

あの路地の塀の上に
置き去りにした缶

あの観光地で
閉じた店先に置いた缶

蹴り上げて
寺の境内に消えた缶

見知らぬ誰かの罪が
自分の罪を暴く

蹴り倒せば
どこからかオニが
出てくるのだろうか