JIMY-Mの音楽活動

 この5年間は毎年一度だけですが宮地楽器のアンプラグドという無審査の企画ライブに出演しています。自分のサイトを最初の頃から見てくれている方はお気づきのことと思いますが、自宅録音で楽曲を発表するべくこのページを作った割には15年間くらい全く進展のないまま過ごしていました。自分の人生の低迷期と言ってもいいくらい無為に日々を暮らし、型にはまった変化の無い生活。それでいいのかと自省しつつ過ごした時を越え、なんとかここ数年はソロながらライブに出ることも始めました。

 このサイトを始めたときには、プロになりたいという捨てきれない思いがありました。だから完璧なデモテープを作って世に問いたいとか、若さ故の根拠の無い自信みたいな世界から抜け出せずにいたのです。それが、年月を重ねブログで詩を書いたり、人生経験を積むうちにやっと肩の力が抜けて、純粋に表現として歌詞を書いて曲にするということを楽しめるようになった気がします。表現というのは他者との関わりの中にあるというのが自分の持論なのですが、そう言う自分が自分だけの世界に引きこもって、虚像の他者に押さえつけられていた気がします。確かに誰もが優しいわけでもないし、受け入れてもらえないことも多いけれど、誰かに受け入れられる喜びはそれに比して大きなものです。臆病なあまりそれに気がつけなかった15年でした。(2010/01/31)

個人的音楽史

最近のライブ活動

 ここ数年は年に一度だけですがライブ活動をやっています。宮地楽器神田店のアンプラグドライブに一人で出演しているのですが、告知してもなかなか見に来て貰えないのが悩みです。まあ、知り合いが来ない方が気楽と言えば気楽ですけど。

2005年
宮地楽器アンプラグド映像1
 「モノクロームの夢」
2005年
宮地楽器アンプラグド映像2
 「虹を探して」

2006年
宮地楽器アンプラグド映像
 「虹を探して」
 「振り向かせることすらできずに」
 「モノクロームの夢」

個人的音楽活動の記録

 小学生の頃はラジオのパーソナリティーになりたいと卒業文集に書いたが、中学生から高校生にかけては俳優にあこがれ、劇団の研究生もやってみた。大学では同級生でバンドを組んで音楽に夢中になった。それ以外にも漫画家だイラストレーターだといろいろとあこがれはあった。そんな移り気な僕でも唯一途切れることなく続けてきたことがある。「歌うこと」だ。

 母から聞いた話ではまだオムツも取れない頃からおもちゃのギターを抱えて西郷輝彦の「星のフラメンコ」を歌っていたらしい。伯母が撮ってくれた8ミリフィルムにはおもちゃのギターを抱えておどる姿が記録されている。残念ながら音声が入っていないので本当のところはかわからない。

 やがて、中学高校とオリジナル曲を作るようになってからは、友人に聞かせたり、バンドのレパートリーに加えさせてもらったり、テープに録音して押し売りしたりもしてきた。そしていまやCDを自宅で作れる時代である。そんな今だからこそ、インターネットという路上に立って何ができるか試してみたいと思うようなりこのサイトを作った。知人すら稀にしか訪れないサイトだけれど、好きなことを続けているということに意義があると思いたい。

バンド活動の思い出

 小学校時代に楽器もなしにバンドを結成。5年生のときにアコースティックギターを質屋で購入し、初めて人前で演奏したのはお祭りのカラオケ大会の前座。フォークソングを歌う友人のサポートだった。中学校の入学祝いにエレクトリックギター(YAMAHA SG-700)とアンプを親に買って貰い、バンドとしての初ライブは中学校卒業のとき。高校時代も何度か集まり練習をしていたがバンドは自然消滅した。もともとメンバーのItaruが神奈川に住んでいて集まりにくかったし、高校に入るとバンドよりも演劇のほうに関心がいっていたせいもある。

 1年間浪人して大学に入学後、音楽系のサークルとは関係なく学部内でバンドを結成し活動を始めた。なぜかフュージョンバンドだった。スクエアのギターをコピーすることを条件に、歌ものもやらせてくれるということだったのだが、実際に活動を初めてみると演奏能力の問題からインストより歌ものが多くなった。嫌気がさしたスクエア好きのベースが脱退。そこで登場したのが小学生のときのバンドを組み高校時代は疎遠になっていたベーシストのItaruである。

 彼は中学高校大学と陸上選手として活躍し、就職活動時期になって地元に帰ってきていたのだ。大学のバンドに入る前からロックユニットRELATIONとして二人で曲作りを始めていたので、その楽曲をバンドでやるようになった。この大学時代のバンドを母体としてロックバンドRELATIONが結成された。詳しくはバンドのホームページの方をごらんいただきたい。